84.全生活史健忘(2010年3月号)

前回まで、物忘れについて述べてきた。てんかん患者さんの一部には過去のある記憶がすっぽりと抜けてしまう場合がある。もちろんこのような症例は決して多いわけではないが、高齢者の側頭葉てんかんで、発作が中々止まらない例などではそのようなことがありうる。いったん脳に刻み込まれた過去のエピソード記憶が消え去るのである。これは記憶の保持障害といえる。

また逆行性健忘というのがある。これも記憶の保持障害であるが、脳外傷を受けた場合などで、外傷以前に経験した過去の記憶を失う場合である。

失われた記憶は事故から遡って数日間と短いこともあるが、数年間の記憶を失うということもある。脳外傷や頻回な発作が、しまい込まれた過去の記憶を壊しまうのである。これらのことについてはすでに前回、前々回に述べた。

またこれとは別に記名力障害というのもある。いま聞いたことが覚えられない、記憶として脳にしまいこむのが出来ないのである。認知症の場合はこの記名力障害が主である。

記憶の中枢は側頭葉側面にある海馬という場所である。この海馬が両側侵されると著しい記名力障害が来る。いま聞いたことを1分も覚えて居れない状態となる。

今回は全生活史健忘について述べよう。これはてんかんとは直接関係が無いが、記憶障害という話を取り上げたので、その一環として全生活史健忘について述べる。

この記憶喪失は出生以来、自分に関連したすべての記憶が思い出せなくなるのである。つまり自分の名前、住所、生活史など一切の記憶がわからなくなる。一般的に記憶喪失といわれているもので、自分が誰であるのか、どこで育ったのか、どこの学校に入ったのか、家族や両親の顔、名前も思い出せないのである。「ここはどこ?私は誰?」、親を見ても「この人は誰?」などということになる。障害されるのは主に自分に関する記憶であり、社会生活は保たれている。

これは解離症状のひとつで、本人に耐えられないストレスなどがきっかけで突然生じる。多くは心因性であるが時には外傷をきっかけで生ずることもある。記憶は脳に保存されてはいるが、それを再生する際の障害である。あるいはむしろ再生することを拒んでいるのかもしれない。

記憶は自然に戻ってくることもあるが、記憶の手がかりになるものを少しずつ接触させることで回復をはかるとこともできる。催眠療法で想起を促す方法もあるが、精神的苦痛が記憶喪失の引き金になっているため、記憶が戻ってもうつ病や自殺願望が生ずることもあるので注意が必要である。

この話は映画や小説としてしばしば登場する。過去の記憶をなくした謎の人物が突如現れ、次第に隠された物語が明らかになるという話である。部分的な記憶喪失はさほど珍しくないが、全生活史健忘は、極めて珍しい。私が45年近い精神科としての臨床経験でも1例しかない。記憶喪失は自己防衛の一つであるので、失われた記憶を無理に呼び戻さなくてもいいような気がする。

「成人期てんかんの特色」大沼 悌一

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