82.過去の記憶を失った女(2010年1月号)

人は時には過去の記憶の一部あるいは全部を失うことがある。

たとえば昨日の出来事や財布を置いた場所を忘れるなどということはよくあることである。これは度忘れの範囲内であり、高齢者などではよくあることである。度忘れが極端になると、数分前に朝食をとったことも忘れ、再び食事を要求したりする。同じことを何回も聞いたりする。また今日が何月何日であるか、自分の年齢が何歳であるのか、ここが自分の家か、病院に入院しているのかわからなくなることもある。これは経験・体験が脳に記憶として刻印されないので過去の記憶がまったく残らないのである。これは近・記憶の障害と呼び、認知症の特徴でもある。

これとは別に、エピソード記憶の障害というのがある。現在の記憶はしっかりしているのであるが、過去のより重要な出来事、たとえば昨年、家族と一緒に海外旅行したこととか、息子や娘の結婚式に出たこと、あるいは親の葬儀に出たことなどを忘れることがある。重要な過去の出来事の一部がすっぽり抜けているわけであり、これをエピソード記憶の障害と呼ぶ。これはてんかん患者でよく見られる現象である。発作によって以前経験した重要な記憶が消される現象である。

最近こんな症例に出会った。 患者は後期高齢者(75台以上)の女性である。10年以上前から、一瞬意識がなくなり、ぼんやりする発作が生ずるようになった。この間何もしゃべらなくなり、動きも止まる。歩いているとどこに行こうとしているのかわからなくなる。電車が来てもぼんやりいて、乗り遅れることもあった。しかし倒れることは無い。けいれん発作も無い。また発作があったことに自分では気がつかない場合が多い。他人に一度医師の診察を受けた方がいいといわれ、当院を訪れた。

この発作は側頭葉てんかんの複雑部分発作といわれる症状で、側頭葉起源のてんかんである。側頭葉には記憶の中枢があるので、いろいろと特殊な形の記憶障害がくる。この患者の記憶障害は過去のエピソードがすっぽりと記憶から抜けていることである。数年前に妹の家族と一緒にアメリカ旅行したこと、そしてナイアガラの滝をヘリコプターから見たこと、またカリブ海にも行ったことの記憶がまったく無い。妹から「あそこでお土産を買い、あの島を見たね、楽しかった」といわれて、自分の記憶がすっぽりと抜けていることにはじめて気づいた。自分でも非常に驚き、かつ不安になった。

本患者は現在の記憶に問題は無い。自分の経歴もしっかりと頭に入っている。長谷川式ミニメンタルテストはほぼ満点の26点である(30点満点)。認知症ではない。

CT,MRIでは両側大脳半球に年齢相応の加齢的変化があり、慢性虚血性変化が散在していた。いわゆる隠れ脳梗塞があり、これがてんかん発作の原因になっていたと推定された。

てんかん発作は、少量のテグレトール完全に止まっており、その後エピソード記憶の障害はない。彼女は自分が認知症ではないかしらと大いに心配していたが、単なるてんかんであったということを聞いて安心した。その後発作も記憶障害も無いのがそれを証明している。しかしいったん失った過去の記憶は戻らない。失った記憶が話題になっても、その実感が沸かないので話は盛り上がらないという。

「成人期てんかんの特色」大沼 悌一

(この記事は波の会東京都支部のご許可を得て掲載しているものです。無断転載はお断りいたします。)