トリオ3年1組 誉田克彦氏追悼演奏会

むさしの国分寺クリニックでは音楽に興味を持つ職員がおおい。加藤昌明院長はピアノを弾き作曲もこなす。大沼悌一名誉院長も下手ながらヴァイオリンをひく。そしてこのクリニックに「アンサンブルむさし」と「トリオ三年一組」という二つの室内楽団ができた。

その一つ、トリオ三年一組は大沼の高校時代の同級生だが、そのメンバー2人が他界して、大沼悌一が1人残った。今回ここに友人の死を悼み追悼演奏会を開いた。

亡き誉田克彦(右)山口紀夫(左)

トリオ三年一組の由来

大沼の高校時代の同級生3人、山口紀夫、譽田克彦、大沼悌一が、卒後40数年たった後に、ある偶然の機会から楽団を結成することになった。
その初練習が平成19年1月21日だから、もうかれこれ9年間一緒だったことになる。大沼が第1ヴァイオリン、譽田が第2ヴァイオリン(後にヴィオラ)、山口がバリトンを歌うグループでこれを「トリオ三年一組」と名付けた。いずれも昭和29年に米沢興譲館高校を卒業した同級生で、クラスも同じ三年一組であった。

この3人はほぼ月1回の定期練習会をもち、プロの指導者 阿知波吏恵 先生(ピアニスト・作曲家)の指導で練習を重ねてきた。練習後は、指導者の阿知波先生を含めて4人で近所の飲み屋で一献を傾け、その晩は近くのビジネスホテルに1泊してもらうのが通例となり、これが皆の一番の楽しみとなった。

ヴァイオリンは難しい。最初の頃は自分の音を出すのに精いっぱいで、隣の人の奏でる音楽が全く耳に入らなかった。伴奏のピアノにも合わせられなかった。よくぞ発表会などに出たものだと自分ながらあきれ、かつ感心している。

私は大学時代の頃ちょっとヴァイオリンをいじったことがあり、何とか楽譜が読めるようになったが、結局ものにはならなかった。そしてその後ヴァイオリンのことなどすっかり忘れていた。再びヴァイオリンを取り出したのは65歳の定年を過ぎたころである。週1回ヴァイオリン教室に通い今年で17年が経つ。最近はようやく、自分の間違いにも気づき、隣に人の音にも合わせられるようになった。

初めての発表会は山口が所属するウータンの会(平成19年4月13日)で行われた。その後も毎年、各地で発表会を持ち、米沢興譲館29年卒3年1組のクラス会もその一つになった。

しかしながら悲劇は突然起きた。平成26年6月14日、恒例の興譲館29年卒のクラス会(小野川温泉 河鹿荘)で演奏したが、その3か月後の9月28日に山口君が急逝した。あんなに元気でクラス会でも歌っていたのに、咳が止まらないということで、病院を受診したところ、肺に影があり、癌であった。抗がん剤で治療したが間に合わなかった。その後、譽田君と2人で「トリオ三年一組」は続け、そして平成27年11月15日、山口紀夫君 追悼演奏会を開いた。

誰か山口君の代わりに、歌を歌ってくれる人がいないかなと探していたら、歌が好きな興譲館高校3年後輩の柳沢剛君が見つかった。彼はテノールを歌う。私と同じバスケットボール部の出身で、バスケットボール部OB会で彼が歌うということを知った。彼を誘ってトリオ興譲館(三年一組を改名)は復活した。

しかしこれも長くは続かなかった。翌年3月、譽田君が体調を崩し、1か月後の平成28年2月24日に急逝した。膵臓癌だった。

大沼は一人ぼっちになったが、新たに「デュオ・バスケ」と改名した柳沢君と2人でまだ音楽活動は続けている。そして平成29年4月2日、譽田君の追悼演奏会をクリニック(東京都国分寺市)で開くことができた。主催は「アンサンブルむさし」、「デュオ・バスケ」で、出席者は、遺族、クリニックの職員、興譲館高校の同級生と大沼と誉田が関与していたバドミントン関係者など30名ほどで、大盛会であった。トリオ三年一組はここで幕を引くがその記録をここにとどめておきたい。

(平成29年11月25日  大沼悌一)

ロンドンデリ―

ロンドンデリ―
楽団:アンサンブルむさし(一番手前が大沼名誉院長、奥でピアノが加藤院長)


レミニッセンス カリオン(加藤昌明院長 作曲)

デユオバスケ(高校時代のバスケ部後輩と一緒 指揮 阿知波吏恵)

来訪者南側 待合室がいっぱいになった

待合室北側

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